学生生活 考える・語る

高校三年間 ≒ 大学1年間という話

最近2021年が終わってしまった。

一年を振り返ってみると確かに長いようであっという間だったと頷ける。

4月早々から緊急事態宣言が出され、全ての講義がオンラインになった春学期。誰とも何とも「新しい出会い」はできず、大学のキャンパスライフをほぼ享受できなかった。

感染者が減り始め安定したということもあり解除され、初めてキャンパスライフに足を踏み込んだ秋学期。対面のELA(英語の講義)で新しい友達を作り、旅行や外食で大学生を謳歌した。部活や講義にも全力投球し、やっと従来の大学生活を取り戻した。

しかし再拡大に伴って緊急事態宣言が出された冬学期。どうしようもできず、自粛を強要され春学期に逆戻りした。しかし春学期の反省も生かし、自分でできることを探した。読書、趣味、筋トレ、ブログなど少しでも学生生活を豊かにするために必死だった。

こんな怒涛で秒速な1年間を通して感じたことがある。どうもこの1年は今までの高校3年間とは違う感覚だ。

4つの違う感覚がある。

高校3年間の時間≒大学1年間の時間という感覚

一つ目は時間だ。

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大学生になって改て感じたのは学生は自由な時間が余るほどあるということだ。授業はそれほど忙しくなく、丸一日休みの日だってある。基本的に土日は休みという特権も感慨深い。

そもそも高校生は時間が拘束されているため自由な時間がない。僕が通っていた高校は週6で授業があり、朝の8時半から午後の17時まで学校にいた。

学校で自由な時間といったら授業間の5分休憩か昼休みくらいだろう。5分間休憩は移動で使えないし、昼休みも腹を満たすためほぼ無い。僕は放課後では部活に全力投球してたので、その後はヘトヘトですぐ寝た。

唯一の自由な時間は学期間の休みだろう。しかしそれも大学と比べては多く無いし、さほど時間も限られている。

つまり高校生には自由な時間が少ないということだ。

それに比べて大学生は自由な時間だらけだ。

僕の大学は履修を自由に組むことができるので、自分の都合に合わせて埋めることができる。周りにには丸一日休むことができる人だっている。また講義には予習・復習の時間があるため講義の数は多くはない。

また土日の講義は少なくあまり取ることもないの大学の講義は基本的に週5だ。なので自由な時間がありすぎる。

僕は大学1年間の自由な時間は高校3年間の自由な時間とほぼ同じくらいだと感じた。

問題はいかに密度を濃くしていくかだ。自由な時間を自分でなんとか有意義にしていかなければいけない。だらだらと過ごしていたら薄っぺらい大学1年間を過ごしてしまう。

高校と違い自由な時間がある大学生はどう時間を有効活用したらいいのか。それは活動の幅を考えることで導き出せる。

高校3年間の活動≒大学1年間の活動という感覚

二つ目は活動の幅だ。時間と同じく大学は活動する余裕が増える。

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そもそも大学は高校とは別の環境にある。

親の同意はそれほど必要ないし、一人で行動することができる。大学のプログラムは豊富にあるので、参加し活動の幅を広めることができる。金銭的に余裕を持てるので旅に出かけることができる。他大学と触れ合う機会が多いので、新しい人と出会うことができる。自由な時間があるので、好きなことに時間を使うことができる。

例をあげると「旅行・インターン・部活・大会・セミナー・グルメ・留学」などがある。

自由な時間があるのことはそれだけ活動の量と幅を広げることができる。そして時間は高校の3年間分なので、それに比例して活動の量と幅も3年間分に相当するはずだ。

僕も旅行で高校の5倍は日本のいろんなところに行ったし、新しい人との触れた。新しい活動や趣味に専念したり、読書で知識を培った。

先程の密度をあげる方法の答えとしては活動量と幅を増やすことだと思っている。できるだけ多くのことを経験すればその分学生生活が濃くなっていくだろう。

高校3年間の発見≒大学1年間の発見という感覚

自由な時間の増加によって活動の量が増えることは先程説明した。活動の量と幅は重要だが、その活動を通して得られる発見も大切だ。

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高校での行事や旅行での体験・発見は多いし、刺激的だろう。しかし自分で主体的に活動することによって得られる知見や発見は別格だと思っている。

発見には量と質があると思っている。

量では活動した回数と比例して得られる発見が増える。どれだけ活動したか、どれだけ触れたか、どれだけ感じたか、どれだけ遠くに行ったか。どんな素朴な体験でも回数を重ねれば多くのことを発見できる。

旅行の数だけその地域の文化・伝統・思いを見つけることができる。グルメの数だけその食材の良さ・品質・店の雰囲気・料理へのこだわりを見つけることができる。交流の数だけ人の良さ・悪さ・価値観・価値基準・尊重できる箇所を見つけることができる。

また大学生はそれまで得た知識を重ねて捉えることができるので、得られる発見の質も違う。高校生までの知識と大学生までの知識とでは質が違う。勉強したことが血肉となり、それが新しい発見を導いてくれる。

高校の頃に理解できなかった現象を大学生になってのめり込むようにハマることは多々あるが、それは知識の質による影響だと思っている。

いろんな経験をし、そこから得られる発見の量と質は明らかに高校3年間よりも深く刻み込まれるだろう。

高校3年間の成長≒大学1年間の成長という感覚

経験・発見から人間は成長する、ということは当たり前だ。何かを経験し、そしてそこから学べば誰だって成長はする。

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高校の3年間で僕は成長した。勉強もした、学祭で張り切った、部活もした、恋愛もした。素敵な経験から学んだことは大いにあった。

3年間の学びが大学1年間の学びと等しいのは誇張し過ぎかもしれない。ただ、ここで強調したいのは大学生活は過ごし方次第で圧倒的な質と量で密度が高い成長ができるということだ。

顕著な例が勉学だろう。大学は主体的に好きな科目を勉強するためにある場所だ。テストや成績を得るためではなく、教養や知恵として学ぶのが勉学の本質である。

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そして大学の環境は高校とは明らかに違う。講義を開く教授はほとんどえげつない。複眼的で思慮深い見解で学生たちを魅了する。講義自体の質や量も高校とは別格だ。

周りの学生も学ぼうとする姿勢が違う。ただ成り行きで受けるのではなく、難解な講義であっても必死に食らいつき勉学に励んでいる。講義だけはなく彼らからも学べることは大いにある。

課題もただ復習のためにあるわけではない。基礎的な知識をもとに、感性と知性を活かして自分なりに応用するように図っている。エッセイやレポートなどでは、授業外の知識まで用いるのは鬼畜だと思う。しかしだからこそ、批判的に総合的に考える力が養われると感じている。

教養とは福利の力で飛躍的に増加する。もともとあった知識に新しい知識を加えることで新しい発見をする。そしてその発見は新しい発見を生み、それが教養として自分の頭に組み込まれる。

主体的に勉強をしよう。面白いと思うことから勉強をしよう。つまらないと思ってもいつかどっかで絶対に役に立つ。教養の幅と量を増やそう。

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